手に負えなくなったマンコ 乱闘に加わり相手への行為で出場から6分後にイエローカード

2022.04.18 リーガ2 (ペルー2部リーグ) 2022

▲ 72分の乱闘で揉み合う輪の中心に入って激怒したレイモン・マンコ

4月16〜17日にペルーのウアラルで行われたリーガ2(ペルー2部リーグ)の前期第3節。「ウニオン・ウアラル vs サントス・デ・ナスカ」で、短気な性格が災いして乱闘に加わった元ペルー代表MFレイモン・マンコがイエローカードを受ける一幕があった。

乱闘が勃発したのは、0-0 で迎えた72分のこと。ビクトル・カストリジョンがミドルシュートを打とうとした途端、背後からケビン・ロセルのスライディングを受けて転倒。主審はサントス・デ・ナスカのフリーキックを指示したが、ロセルのファウルに対してサントス・デ・ナスカの選手数人がクレームをつけた。

するとそこから両軍入り乱れての乱闘に発展。揉み合う輪の中に入っていったマンコはホセ・ビクトル・ソトと言い合いになり、両手でソトの胸元を押した。この行為に対し、主審はマンコにイエローカードを出した。この日マンコは67分に途中出場でピッチに立ったところで、出場のわずか6分後にカードをもらってしまった。このときの様子を、ペルーのメディア「Libero」のサッカー編集部は「手に負えなくなったマンコ」という見出しで報じた。

マンコは終盤にゴールを奪える決定機に恵まれたが、右足のインサイドキックで放ったボレーシュートは、枠を捉えるもキーパーにキャッチされた。試合はスコアレスドローに終わり、マンコ擁するサントス・デ・ナスカは2戦連続で引き分けとなっている。

兼ねてから怒りやすい短気な性格で有名なマンコだが、31歳の現在も怒りっぽい性格は健在のようだ。

リーガ2(ペルー2部リーグ) 2022 前期 第3節 (2022/04/17)
ウニオン・ウアラル 0-0 サントス・デ・ナスカ
アイロ・カマーチョ GK カルロス・ロマン
ヨルダン・キンタニーヤ
エリック・ロッシ
ブライアン・ベルナオーラ
ホセ・マリーナ
DF ジャン・フランコ・ファルコニー
ファン・マヨ
(ビクトル・カストリジョン)
ルイス・フェリペ・カルドーナ
ブライアン・オルメーニョ
ホセ・ビクトル・ソト
ロヘル・チンガ
(ディエゴ・クアドロス)
ルイス・エンリケ・カノ
カルロス・アウグスト・ロペス
MF パオロ・ブスタマンテ
(ルイス・ロメーロ)
ジェフェルソン・ナバーロ
(レイモン・マンコ)
エルナン・イノストローサ
ケニー・バリオス
ケビン・ロセル
レオネル・ガルシア
(セバスティアン・ラ・トーレ)
FW ホスエ・エレーラ
ルイス・アルベルト・ペレア
(デニルソン・ラミーレス)
ゴール
イエロー
カード
ホスエ・エレーラ
レイモン・マンコ
ルイス・ロメーロ
カルロス・ロマン
フランシスコ・メルガール 監督 オルランド・ラバーレ
主審: ハメス・ウアマニー
会場: エスタディオ・フリオ・ロレス・コラン (ウアラル)

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。2022年はキャリア初の2部リーグに舞台を移した。元ペルー代表。

大陸間プレイオフの最重要課題は暑さ対策 カタールに移籍したこともあるマンコが口を開く

2022.04.01 リーガ2 (ペルー2部リーグ) 2022

▲ 2012年にはカタールに渡り、中東の厳しい暑さを体で知っているレイモン・マンコ(写真は2012年5月6日のもの)

南米予選で5位になったペルー代表は、6月中旬に行われる大陸間プレイオフでアジア予選プレイオフ勝者と対戦予定。例年はホーム&アウェイで2試合行われてきたが、今回はCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミックなどの影響もあり、中立地でもある開催国カタールでの一発勝負となった。

大陸間プレイオフは元々、2022年3月中に開催される予定だったが、COVID-19の余波で各国代表のスケジュールが全世界的に後ろ倒しになったことで、プレイオフは6月の開催に変更。この変更は、プレイオフに挑む各国の選手にとって、より過酷さを増した。カタールのドーハの最低気温と最高気温とで比較すると、3月が約18〜27度、6月は約29〜40度と暑さが大きく異なる。しかもこれは中央値であり、日によっては最高気温が45度や50度を超えることも珍しくない。

そのため、FPF(ペルーサッカー連盟)はCONMEBOL(南米サッカー連盟)の協力を得た上でFIFA(国際サッカー連盟)にプレイオフ開催地の変更を要請。だがFIFA側は開催国カタールでの一発勝負を変更する意志などなく、ペルーはカタールでプレイオフを戦うことになりそうだ。

そんなカタールの猛烈な暑さを肌で感じたことのある、レイモン・マンコが口を開いた。

マンコは、自身がまだペルー代表に招集されていた2012年5月6日にアル=ワクラ(カタール)へ移籍。しかし、同クラブが外国人選手を補強しすぎたため、外国人枠の都合によりマンコはレンタル要員にされた挙げ句、同クラブで公式戦に1試合も出場することなく同年中に退団した過去を持つ。

「試合は常に夜に行われた。とてつもなく暑くて、ものすごく息苦しく、トレーニング中に何度も呼吸困難に陥ったほどだった。6月は、今以上に過酷な暑さになる。10年前に私がカタールのクラブに移籍したとき、チームスタッフから暑さ対策のワクチンを打ってもらったことを覚えている。さらに彼らは、暑さに体を慣れさせようと毎日30分間の(散歩による)日光浴をするよう私に勧めてきた。でも私はほとんど歩くことができなかった。あまりにも暑すぎたからだ」

ペルーの地元メディアにそう回答したマンコは、「カタールの酷暑を知る一人として、今のペルー代表にアドバイスできることはあるか」と尋ねられて、次のようなコメントを残した。

「理想を言うなら、試合日の少なくとも2週間前には現地入りしておくことかな。暑さに慣れるまでは、とても試合に臨める状態にはできないから。対戦相手は未定だが、UAE(アラブ首長国連邦)になる可能性があるよね。UAE代表はあの特殊な気候になれているから、UAEとの対戦になったらペルーにとっては中立地でなくアウェイのような環境になる。注意が必要だね」

マンコの体験談は、ペルー代表の大陸間プレイオフ突破の一助となるのか。

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。2022年はキャリア初の2部リーグに舞台を移した。元ペルー代表。

頭が色鮮やかになったマンコに宿る“七転び八起き”精神 ペルー代表復帰への思いも語る

2022.03.20 リーガ2 (ペルー2部リーグ) 2022

▲ TikTokで自身への批判に反応したレイモン・マンコ。紙の色を局所的に紫や青などカラフルに染めている

2007年のU-17南米選手権でペルー代表を4位に導き、自身は大会MVPに輝いたレイモン・マンコは当時、将来のペルー代表を背負って立つ逸材ともてはやされた。しかし年を追うごとにかつての輝きは失われ、プライベートでのスキャンダルもあってキャリアは尻つぼみに。最後にペルー代表に招集されたのは2013年で、2017年にサモーラFC(ベネズエラ)からウニオン・コメルシオへ移籍して以降はペルー国内のクラブチームを渡り歩いている。

そして2022年、31歳のマンコはリーガ2(ペルー2部リーグ)でのプレイを選択した。そんなマンコには、1部でなく2部のクラブを選んだことへのバッシングも少なからずあるという。そうした批判の声に反論すべく、マンコが口を開いた。

TikTokに投稿した動画で、マンコは「(リーガ2はペルーで)最高のリーグではないけれど、状況や立ち位置は意識ひとつで変わるし変えられる。これまでにも何度か転んだが、そのたびに起き上がってきた」と不屈の“七転び八起き”精神を発信した。するとこの動画には1万以上の「いいね」が付き、ペルー代表への復帰を待ちわびる多くのファンからの激励コメントが届いた。

「一時的な亀裂に過ぎない」、「将来(ペルー代表復帰)の約束だね」、「より良くなりたい気持ちがあるなら、きっと願いは叶うよ」、「またペルー代表で活躍するマンコを見たい」、「素晴らしい選手。敬意を表して、まだチャンスはあるはずだ。私は(クリスティアン・)クエバの隣でプレイするマンコに会いたい」

TikTokに登場したマンコは、毛を紫や青などを混じらせた奇抜な髪型を披露。色鮮やかになったマンコは、4月に開幕するリーガ2に向けてトレーニングを積んでいる。

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。2022年はキャリア初の2部リーグに舞台を移した。元ペルー代表。

マンコは大人気 練習試合の後に対戦相手の選手から写真撮影を求められ笑顔で応じる

2022.03.14 リーガ2 (ペルー2部リーグ) 2022

▲ 13日の練習試合を終えた直後に対戦相手の選手との写真撮影に応じるレイモン・マンコ(中央)(写真提供:Difusión)

3月13日、ペルーの首都リマ近郊のビヤ・エル・サルバドールにあるエスタディオ・エクトル・チュンピタスで、リーグ2(ペルー2部リーグ)開幕前の練習試合が行われた。「サントス・デ・ナスカ vs フベントゥー・サンタ・ローサ」で前者の選手として出場したレイモン・マンコは、対戦相手の選手からも大人気だった。

試合は、マンコ擁するサントス・デ・ナスカが 0-4 と完敗。だが試合が終わると、マンコの元にはピンク色のユニフォームを着たフベントゥー・サンタ・ローサの選手が集まり、マンコを取り囲むように。その理由は、彼らが元U-17ペルー代表のマンコといっしょに写真撮影に興じたかったからだ。

完敗した試合の直後にも関わらず、マンコはピンク色のユニフォームを着た選手と並び、笑顔で写真撮影のサービス。そんなマンコの姿勢に、フベントゥー・サンタ・ローサの面々からは絶賛の声が挙がった。

2022年のリーガ2は、4月2日に開幕予定。現地報道では、マンコはサントス・デ・ナスカで開幕戦から出場予定とのこと。

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。2022年はキャリア初の2部リーグに舞台を移した。元ペルー代表。

アナ・マンコさんがInstagramでウクライナ侵攻を批判 「このような破壊行為は必要ない!」

2022.03.02 ロシアのウクライナ侵攻

ロシアが2022年2月24日に隣国ウクライナへの侵攻を開始して以降、ウクライナの情勢は悪化。この事案に対しては世界中からプーチン大統領への批判が渦巻いている。死傷者も増え続けている惨状に心を痛める人が絶えない中、U.S.A.で暮らすベネズエラ人女優のアナ・マンコさんが自身の Instagram で心の声を上げた。

アナ・マンコさんはストーリーに数枚の写真を投稿。ウクライナ国内でロシアからの爆撃を受けて大破した灰まみれの乗用車の写真には、スペイン語で「これは必要ない(このような破壊行為は必要ない)!」の文字を添えて、ロシア軍の無差別攻撃を非難。他にも襲撃により死亡した人の遺体に消火活動を行う隊員の様子などを、ハッシュタグ #ucrania(ウクラニア=スペイン語でウクライナ)を添えて投稿するなど、ロシア側の横暴と反戦を訴えた。

以前にもアナ・マンコさんは、レバノンの首都ベイルートで発生した大爆発事故について心を痛めている主旨の投稿をしたことがあり、犠牲者に寄り添う意思を明確に表現してきた。そんなアナ・マンコさんにとって、このたびロシアが実行に移したウクライナ侵攻は到底看過できることではない。

アナ・マンコさんの悲しみと心の叫びは、プーチンとロシアに届いているのか。

◆ アナ・カリーナ・マンコ

本名:
アナ・カリーナ・マンコ・グスマン
生年月日:
1967年12月17日生まれ(54歳)
出身:
ベネズエラ(首都カラカス)
最終学歴:
サンタマリア大学、ベネズエラ中央大学
配偶者:
ビセンテ・イグナシオ・ペレス
子ども:
ディミトリ・ニコラス・ペレス・マンコ(息子)
アレクサ・カテリーナ・ペレス・マンコ(娘)
職業:
女優、モデル、声優、弁護士
twitter:
@akmanco
Instagram:
anakarinamanco
公式サイト:
anakarinamanco.com

4人兄弟の末っ子で、母は1960年代にラジオ番組のパーソナリティとして活躍したノルマ・テレーサ・マンコ・グスマンさん。13歳で舞台役者となったが、一旦芸能界から離れて17歳に復帰すると、複数の映画やドラマなどで主役や脇役を熱演した。1995年には当時の恋人ルイス・フェルナンド・キンテーロさんを旅客機墜落事故により失う不幸に遭遇したことで、1年間の休養を余儀なくされた。2002年5月25日に31歳でビセンテ・イグナシオ・ペレスさんと結婚して、二人の子どもに恵まれた。現在は米国のマイアミで家族と暮らしている。

A代表デビューから14年 当時17歳のマンコには輝かしい未来が待っていると誰もが思っていた

2022.02.06 ペルー代表

▲ 2008年2月にラ・パスでの国際親善試合ボリビア戦でA代表デビューを果たしたレイモン・マンコ(当時17歳)

さかのぼること14年前の2008年2月6日、ボリビアの首都ラ・パスにはペルーA代表デビューを果たしたレイモン・マンコがいた。高地に降り注ぐ真夏の太陽は、まだヒゲも薄い17歳の青年を明るく照らしていた。

前年の2007年3月にU-17南米選手権でチームを4位に導き、大会MVPにも輝いたマンコは、同年4月には名門アリアンサ・リマでプロデビューを果たす。そして翌2008年の1月29日、A代表において複数の負傷者が出たのを受けて、当時の代表監督ホセ・デル・ソラール氏はマンコを招集。ボリビア戦(2-1で勝利)、コスタリカ戦(3-1で勝利)にて才能の片鱗を覗かせたマンコに、ペルー国民は熱狂した。

だが、マンコがA代表でプレイしたのはわずか7試合で、すべて親善試合だった。南米予選など公式戦でのA代表出場歴はなく、マンコが最後に代表のユニフォームを着てプレイしたのは2013年8月の韓国戦。2015年にリカルド・ガレカ監督が就任して以降は、一度も代表に招集されていない。

これまでにも、マンコを求める声はあった。ロシア大会前の2018年3月には、当時代表でテクニカルアシスタントコーチを務めていたノルベルト・ソラーノ氏が、「おもしろい可能性を秘めている」と“マンコ待望論”を公言。また、マンコ自身が「準備はできている」とガレカ監督にアピールしたこともあった。しかし、度重なるアピールもガレカ監督はここまででマンコを招集してはいない。

あのラ・パスでのまぶしい夏の日から14年の歳月が流れ、31歳になったマンコはペルー2部のサントス・デ・ナスカに身を置いている。かつてPSVアイントホーフェン(オランダ)など欧州の第一戦にいた頃の面影はなく、本人も欧州行きを考えてはいない。それでも、「現役を続けている限りは代表復帰を目指す」とマンコはたびたび口を開く。

2022年はカタールでワールドカップが開催される。今年こそ、A代表にマンコが招集される日は訪れるのだろうか。

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。元ペルー代表。

マンコの虜だったとコロンビア人記者が告白 順調ならレアルかバルサで活躍していたとも

2022.01.29 元ペルー代表

▲ コロンビアで長くスポーツジャーナリストとして活躍中のハイメ・ディナス氏(写真左丸)は当時16歳のレイモン・マンコに大きな可能性を感じていたという

現在31歳のレイモン・マンコは、選手としてはピークが過ぎてしまったのかもしれない。しかし、若かりし頃のマンコは未知の可能性にあふれ、光り輝いていた。当時を知るスポーツジャーナリストが、マンコについて口を開いた。

若い頃のマンコをベタ褒めしたのは、コロンビア人ジャーナリストのハイメ・ディナス氏。1992年のバルセロナオリンピックから第一戦でサッカーの取材を続けている人物で、2007年にはU-17南米選手権の取材のためエクアドルを訪れ、試合を観戦していた。そのとき同氏は、うら若きマンコの輝く姿に心を奪われたという。当時のマンコを思い出して語るディナス氏は、雄弁だ。

「南米サッカー界において、アルゼンチン人やブラジル人よりも優れている選手は、そうそういるもんじゃない。だが、希有な選手の一人は、2007年のエクアドルにいたんだ。それがマンコだった。マンコの才能に感銘を受けた私は、今でもあのときのマンコを忘れられない。私は当時、彼(レイモン・マンコ)はペルーのメッシとまで思った」

その後、マンコはPSVアイントホーフェン(オランダ)に渡ったが、私的な問題などで母国ペルーに戻って以降は鳴かず飛ばず。ペルー代表にも、2013年の親善試合(韓国戦)を最後に出場していない。それだけに、ディナス氏はマンコの内面がより良ければ、欧州のビッグクラブで活躍する一流の選手になっていたはずだと強調する。

「オランダに渡って以降のマンコは、実にもったいなかった。プレイよりも、ピッチ外の問題だけに、なおのことだ。もしマンコが別の脳を有していたら、あのとき私が見た少年はいずれレアル・マドリーかバルサ(FCバルセロナ)にたどり着いていただろう。16〜17歳の頃のマンコを見たときは、真剣にそう思ったよ。それほどの才能の持ち主だったんだ、マンコは」

もしもマンコが、ディナス氏が思い描いた通りのキャリアを歩んでいたならば、マンコは今もペルー代表の一員としてワールドカップ南米予選を戦っていたのだろうか。

そんなハイメ・ディナス氏のお気に入りの街はペルーの首都リマとのことで、リマで味わうペルー料理が大好きだという。2007年に若き日のマンコに心をわしづかみにされたハイメ・ディナス氏は現在、南米随一のグルメ大国とも呼ばれるペルー料理に胃袋をわしづかみにされている。

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。2022年はキャリア初の2部リーグに舞台を移した。元ペルー代表。

キャリア初の2部でプレイする選択をしたマンコ 「当初はその気はなかった」と考えを語る

2022.01.23 リーガ2 (ペルー2部リーグ) 2022

▲ ペルー2部のサントス・デ・ナスカに加入したレイモン・マンコだが、元々は2部でプレイする考えはなかったと述べた

31歳の元ペルー代表MFレイモン・マンコは、2022年はリーガ2(ペルー2部)のサントス・デ・ナスカでプレイすることになった。だが、これまで2部のクラブに所属したことがなかったマンコには、元々2部でプレイする考えはなかったという。

「今年リーガ2でプレイするのは私の考えではなかったが、それでも現実はリーガ2でのプレイを選んだ。私はチャレンジ精神旺盛な男であり、リーガ2での新シーズンに臨む意欲がある。成熟した今は落ち着いて方向性を見極められているし、キャリアは次のステップに進んだと前向きに捉えている」

ペルーサッカー界で人気の高いマンコには、このオフにも複数のクラブチームからオファーがあった。しかし、1部のクラブから打診されたオファーはいずれも条件が合わないとして、マンコは契約書にサインしなかった。

「率直に、彼らはペルー人選手へのリスペクトを欠いている。彼らは選手の置かれた状況を利用して、安い給料で契約しようと目論んでいるんだ」

マンコは2020年にアトレティコ・グラウで、2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーでそれぞれプレイした。前者は1年で1部昇格を果たしているが、後者は2部にいる。2022年のリーガ2には他にもファン・アウリッチ、ウニオン・コメルシオとマンコがかつて所属した“古巣”が3チームあるため、今年のマンコには古巣対決がいくつか待ち構えている。

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。元ペルー代表。

マンコの新天地決定 ペルー2部のサントス・デ・ナスカへの加入が決まる

2022.01.12 リーガ2 (ペルー2部リーグ) 2022

▲ サントス・デ・ナスカへの加入が決まり入団会見で両手の親指を立てるレイモン・マンコ(中央)

マンコの新天地が決まった。サントス・デ・ナスカは12日、31歳の元ペルー代表MFレイモン・マンコの加入を発表した。

サントス・デ・ナスカは標高500mほどのナスカをホームタウンとする、1976年創立のクラブチーム。昨年のリーガ2(ペルー2部リーグ)では前期が12チーム中7位で、後期は12チーム中11位と低迷した。リーガ2は前後期の合計勝ち点で6位以内に入れば決勝トーナメントに進出できるレギュレーションだが、昨年のサントス・デ・ナスカは下から3番目の10位だった。チームのリーガ1昇格を実現させるべく、サントス・デ・ナスカはマンコに託すこととなった。

マンコは2020年にアトレティコ・グラウをリーガ1で残留に導けず、2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーを残留に導けなかった。不名誉な「降格請負人」のレッテルを剥がすべく、2022年はサントス・デ・ナスカを昇格に導けるか。

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。元ペルー代表。

家族で帰省できなかったマンコの元妻 フィオレーラさんが一人で帰国した理由とは

2022.01.08 マンコの元妻

▲ 2022年の年明けをTikTokなどでアピールしたフィオレーラ・アルサモーラさん。2013年には元ペルー代表MFレイモン・マンコと結婚し、2年弱ほどマンコの妻だった。

フィオレーラ・アルサモーラさんは、2022年の年明けを家族と過ごさなかった。過ごさなかったのではなく、過ごせなかった。

フィオレーラさんは現在の夫や子どもとともに彼女の母国ペルーで年を越す予定だったが、彼女の息子がパスポートを紛失してしまったため渡航できず、その結果フィオレーラさんが一人で帰省することに。実家で両親と新年を迎えた彼女は、1月4日に夫と息子が待つスウェーデンに戻っていった。

「夫はペルーに行くつもりでいたのよ。でも、いくつかの不便があって叶わなかったの。息子がパスポートを紛失しちゃってね。それで仕方なく私だけペルーに帰ったの。夫と息子に早く会いたかったから、新年を迎えてからすぐスウェーデンに戻ったわ」

フィオレーラ・アルサモーラさんは、2013年から2年間、レイモン・マンコと婚姻関係にあった。マンコの妻であった頃には、ペルー代表FWパオロ・ゲレーロと不貞行為に及んでいた事実を離婚後に暴露して一躍時の人となった。その後は結婚と離婚を繰り返し、「21世紀のエリザベス・テイラーになる」と公言したこともある。

十数年の歳月が流れて エロ・マンクーソがリケルメ副会長と再び2ショット写真を撮る

2021.12.18 コパ・アルヘンティーナ 2019-2020

▲ ボカ・ジュニオルスのエロ・マンクーソとファン・ロマン・リケルメ副会長の2ショット写真。左はマンクーソがジュニアユース時代のもので、右は今年コパ・アルヘンティーナの優勝後

12月8日にサンティアゴ・デル・エステーロで行われたコパ・アルヘンティーナの決勝「タジェーレス × ボカ・ジュニオルス」は、ボカがPK戦を制して優勝した。

コパ・アルヘンティーナの決勝では出場機会がなかった右サイドバックのエロ・マンクーソも、優勝の喜びを噛みしめた。そしてコパのトロフィーを抱えたマンクーソは、ファン・ロマン・リケルメ副会長と笑顔で2ショット写真に収まり、その写真を公表した。

ボカの下部組織出身のエロ・マンクーソは小学生の頃に、当時現役でボカの選手だったファン・ロマン・リケルメ副会長と2ショット写真を撮っていた。それから十数年の歳月が流れて、マンクーソは今度はコパ・アルヘンティーナのトロフィーを手に再びリケルメ副会長と2ショット写真を撮る機会に恵まれたのであった。

マンクーソの確かな成長を確認できるリケルメ副会長との2ショット写真は、ボケンセをワクワクさせるのに十分なものだった。

◆ エロ・マンクーソ

本名:
エロ・ナサレーノ・マンクーソ
生年月日:
1999年4月17日生まれ(22歳)
出身:
アルゼンチン(ブエノスアイレス州メルロ)
身長:
167cm
ポジション:
サイドバック

8歳でボカ・ジュニオルスの下部組織に入団すると、以降各年代のカテゴリーで中心選手として活躍。かつてはミッドフィルダーだったが、近年は右サイドバックとして起用されることが増えた。2021年にトップチームデビューを果たすと、12月11日のリーグ最終戦で待望の初ゴールをマークした。

マンコの脳裏に焼き付いている欧州時代の記憶 「マスチェラーノに突き飛ばされた」

2021.12.18 UEFAチャンピオンズリーグ 2008-2009

▲ 2008〜2009年にオランダの名門PSVアイントホーフェンに所属していた頃のレイモン・マンコ

マンコが、若き頃の思い出を語った。PSVアイントホーフェン(オランダ)に移籍して一年目の2008年に初出場した、UEFAチャンピオンズリーグでの話だ。

PSVといえば、過去には(当時ブラジル代表だった)ホマーリオやホナウド、そして(ペルー代表FW)ジェフェルソン・ファルファンなど数々の南米選手が、ビッグクラブ移籍への足掛かりにしたオランダの名門。現在は母国ペルーのクラブチームを渡り歩いている31歳のレイモン・マンコも、2007年のU-17南米選手権で最高の選手と称されて翌2008年にはPSVに移籍した。若きマンコがこれから飛躍を遂げるはずの一年目だった。

マンコは、2008年10月1日に行われたUEFAチャンピオンズリーグの「PSV vs リヴァプール」に80分から途中出場。この日がチャンピオンズリーグでのデビュー戦となったマンコは、まずキックオフの前に対戦相手のベンチ要員を確認して驚いたと振り返った。

「私が欧州での選手生活で最もよく覚えているのは、チャンピオンズリーグでのデビューとなったリヴァプール戦。あの日のリヴァプールは主力を温存していて、ベンチにはシャビ・アロンソやスティーヴン・ジェラード、ルイス・スアーレスがいたんだ。プレイステーションで遊んでいるような気分だったよ」

そしてマンコは、1-3 の2点ビハインドで迎えた80分に、(当時エクアドル代表MF)エディソン・メンデスとの交代で途中出場。マンコの脳裏には、試合での思い出も鮮明に焼き付いている。

「ハビエル・マスチェラーノに突き飛ばされたね。私が最初にボールに触れたときだったことも覚えているよ。試合後には彼(マスチェラーノ)とシャツ交換もしたね」

当時はコロンビア代表MFハメス・ロドリゲスよりも高い評価を受けていたマンコだったが、その後マンコが“先輩方”のように飛躍することはなかった。

◆ レイモン・マンコ

本名:
レイモン・オランヘル・マンコ・アルバラシン
生年月日:
1990年8月23日生まれ(31歳)
出身:
ペルー(ルリン)
身長:
172cm
ポジション:
ミッドフィルダー

17歳だった2007に名門アリアンサ・リマでデビューすると、同年にはU-17ワールドカップにも出場して3ゴールをマークし、一躍脚光を浴びた。18歳の若さでオランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍したが、1年半でペルーに戻った。その後は国内外で移籍を繰り返していて、やがてペルー代表にも招集されなくなっている。ウニオン・コメルシオで復調すると、2019年はレアル・ガルシラッソに加入したが、新監督との確執や起用法への不満などからわずか5ヶ月間で退団。同年7月にスポルト・ボーイスに加入してチームの1部残留に貢献した。2020年は前年王者のデポルティーボ・アリアンサ・ウニベルシダーに移籍してリベルタドーレスにも出場したが、COVID-19のパンデミックによる中断期間中に首脳陣と対立して退団。アトレティコ・グラウへ移籍したが、チームを残留には導けなかった。2021年にはアリアンサ・ウニベルシダーに加入したが、こちらでもチームを残留には導けず。元ペルー代表。